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投稿番号:100048  投稿日:2001年08月13日 22時23分33秒 パスワード
お名前:yuny

「A.I.」と「鉄腕アトム」比較

キーワード:A.I. AI スピルバーグ 鉄腕 アトム 手塚治虫
コメントの種類 :洋画

「A.I.」を見てきました。マンガ版「鉄腕アトム」となんとな〜く比較しながら見てしまいました。

アトムは結局、ロボットの両親(家庭)を得て幸せになるけれど、「A.I.」のデイビッドは人間の母に愛されたいと最後まで望みます。でも、母親の立場にしてみれば、自分のおなかをいためていない子供(しかもロボット)を愛する、というのは無理があったのでしょう。人間の養子ならとにかく、ロボットなら、どこかでモノだと思ってしまうしね。結局、ロボットはロボットの家庭でしか幸せになれないんでしょうか。アトムの場合は、御茶ノ水博士がアトムの為にロボットの家庭を作ってくれたので、家族として暮らす事ができたわけです。

あくまでロボットの幸せのためではなく、人間の幸せのために家庭に入れたわけで。人間って勝手だよ、と思うような描写が沢山あった。ロボットをぶちこわすショーの場面は、まるでローマ帝国の剣奴の決闘を思わせる。そういうのを見て楽しむとは、人間は全然進歩していないんでしょうか?(アトムにもロボッティングという、ロボット同士の決闘ショーの描写がありましたね)実際、ヒューマノイドのような存在は、今世紀中には作られてもふしぎはないんです。現実問題としても人間はもっと立派にならないといけない。

愛を求めても、それがいい形で返ってこないと、孤独になるばかりですね。これは何もロボットの問題ばかりではなくて、普通の私達人間の、現実の世界でも別の形で充分起こりうる事です。あんな形でしか望みがかなわなかったデイビッドが、かわいそうで仕方ありませんでした。

アトムは人間になる(人間らしいロボットになる)ことをあきらめ、ロボットとしていかに良く生きて行くかを求めるようになりますが、デイビッドはあくまで人間になりたかった。この差は、ロボットとして生きて行く事が自分らしいと割り切れたアトムと、愛の為に自分を変えなくてはならないと思ったデイビッドの違いがあると思います。

「A.I.」と「鉄腕アトム」比較という観点で、レスをお待ちします。

[1]のぶればさんからのコメント(2001年08月16日 00時07分15秒 )
パスワード
私も「A.I.」観ました。
スレッドを立てようかと思いつつ、十分自分の中で消化しきれない部分があって躊躇っていると、yunyさんのスレッドが立ち上がったので、書き込みすることにしました。

>「A.I.」と「鉄腕アトム」比較という観点で、レスをお待ちします。
「鉄腕アトム」はアメリカでは発表当時、かなり賛否両論あったそうです。
その中にロボットと言えども、アトムに対する仕打ちが残酷だという意見もあったそうです。
辛口の評論では「だから、日本はカミカゼ特攻隊のようなことが命令できるんだ。」みたいな過激な発言もあったとか…

>人間って勝手だよ、と思うような描写が沢山あった。
でも、こうした描写は全て否定的な描き方でしたよね。いかにも嫌らしさがつきまとうような感じです。ロボットをぶちこわすショーでは、人間そっくりなデイビットが処刑されようとした時に、観衆の思いは逆転する。
このシーンでも、「じゃあ、人間の持つ愛情は、どこから生まれるのか?」と鋭く問われている様な気がしました。これは「A.I.」の作品全編を貫くテーマの一つだと思っています。でもその答えはとても難しい。

>この差は、ロボットとして生きて行く事が自分らしいと割り切れたアトムと、
>愛の為に自分を変えなくてはならないと思ったデイビッドの違いがあると思います。
外見的には、デイビットよりもアトムの方が幸せそうですよね。
でも、二つの作品の設定上の大きな違いを見逃せません。

デイビットは「親を愛し続ける」或いは「親から愛され続けたい」とインプットされたこと自体に、つまりは彼の存在意義自体に矛盾があると思います。しかも、彼はそこから抜け出すことができないままにいる。もちろん、そのことが「本当の愛情とは…」を問うモチーフになるのですが。ある面、親の子どもへの愛情の在り方への警鐘ともなっていますよね。

一方、アトムは「人間が幸せになるために」作られたと言えるでしょう。こちらの方は明快です。「人間が幸せになる=他のものも幸せになる」と言う手塚治虫さんの信念とも言えそうな結論に支えられているように感じます。

「ロボットとして生きて行く事が自分らしいと割り切れたアトム」は、実は「自分(ロボット)の幸せと人間(周囲)の幸せとは切り離せない」と知る成長(自立)では無いでしょうか?
「愛の為に自分を変えなくてはならないと思ったデイビッド」は自分を変えられない(自立できない)ようにプログラムされたことから来る悲劇ではないでしょうか?

そんな風に思い候。

[2]Yunyさんからのコメント(2001年08月19日 01時03分36秒 )
パスワード
素晴らしいレスをありがとうございます。返事が遅れてすみません。
この両作品は、人間に似て、人間ではない機械−−ヒューマノイドを通して、人間のありかたというものを鋭く問いつめていると思います。
デイビットは、ヒューマノイドゆえに、先天的にあった「機能」として人間を愛しましたが、そこから自発的な願い−人間から愛されたい−を抱くようになりました。愛は本質的にキャッチボールのようなものですから、先の機能(人を愛する事)を造れば、必然的に「愛を返して欲しい」という欲求を抱いたんだと思います。そして、この2つの欲求が満たされるためには、人間側が、異種の存在を受け入れられなくてはならないのですが、人間は愛情を求めて彼を造ったのに、彼に愛情を返す事は出来ませんでした。初めは出来ていたかのようでしたが、だんだんと破たんして行ってしまったのです。
また、デイビットがヒューマノイドだったがゆえに、人間は自分のした過ち(ロボット破壊ショーの残虐性)に気がつきました。彼が舞台に上がるまで、人間の似姿を造ったり破壊したりしておいて、その行為の本質に気がつこうとさえしていなかった。ここにも人間の身勝手さが描き出されています。
一方、アトムは「人間を幸せにすることが、僕の幸せなんだ」ということに目覚め、そのために行動して行きます。アトムが喜んで手伝いたくなるような人間でなければ甲斐がないのですが、ときにより彼は人間に利用されたり振り回されたりもします。
科学で愛情は造れるか?というテーマがこの両作品にはあると思います。私は、科学で愛情をプログラムするならば、人間が造ったものを人間と同様に愛せなくてはその資格はないと考えています。
>「本当の愛情とは…」を問うモチーフになるのですが。ある面、親の子どもへの愛情の在り方への警鐘
>「人間が幸せになる=他のものも幸せになる」と言う手塚治虫さんの信念とも言えそうな結論
たしかにその通りです。結局、愛情というのは、片方が求めるだけでなく、返す事ができてこそ、キャッチボールが出来てこそのものなんだと思いました。

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