[デーブ川崎の居酒屋一覧に戻る] お名前:KORN
地域:その他 ちょっとヤバいネタですが・・・ 昨日のニュース番組の特集でオウムの子供達の就学拒否問題が取り上げられていました。 オウムの子供の就学に対し地域が猛反対して学校に入れないとのこと。 ・・・単純な疑問なのですが、これって明白な憲法違反ではないでしょうか。 個人的にはオウムはテロ集団だと思う。 破防法を適用して速やかに解散させてほしい。 テロ集団が宗教活動しようが、名前を変えようが、やはりテロ集団に変りはない。 しかし、オウムの子供を小学校に就学させないというのはやりすぎだと思う。 犯罪者の子供は一生親の罪を背負わなければならないのか? オウムの子供は義務教育を受ける権利はないのか? オウムのテロ行為に対して破防法を適用しようとした時、声高に慎重論を叫んだ人達 はこの問題についてどう思っているのでしょうか。少なくとも法律上大いに問題がある と思われるのに、なぜその人達はこの件については沈黙しているのでしょうか。 「オウムに破防法を適用する」と「オウムの子供に義務教育を受けさせない」 法律上どちらがより問題があるのか考えるまでもないと思うのですが・・・? (しかし、このテーマは意見が分かれそうだな・・・) |
意見が分かれる事を歓迎しましょう。
堂々巡りになったら話題を区切ってスレッドをどんどん立てればいいと思います。
ぶつかることを恐れずにいきましょう。
今ならもう、大丈夫なはずです。
さて、一番怖いのは「善良な子供に爆弾を背負わせてくる」可能性です。
爆弾とは言葉であり、文書であり、カセットであり、デマであり...
これをどう防ぐか....この危険がある以上、具体的に市民の平和を守る
義務がある地方行政の立場は、拒否をして防御するしかないのだと思います。
憲法は絶対ではないと思います。
絶対法とのものに疑問です。
その都度話し合う面倒さを省いた、19世紀的な半端な合理主義だと
思うのです。
...というあたりで、反対派も擁護派も出やすいかしら。
荒れると行けないので、茶碗類は片づけまーす。
どんどんやろう。
私などは「だからあの時、(破防法で)潰しておけば良かったんだ!!」ってな人なのですが、
弟いわく「それは政府の暴走に繋がるから、絶対ダメ」という人なのでした。
私としてもその意見は充分納得できるので異論は唱えられない。
しかし、正真正銘のテロリスト集団の「関係者」を地域に、学校に入れるというのは絶対避けたい。
で、更に弟いわく「オウムの子供達を全員福祉施設などに入れ、そこで教育すればいい」と言う。
これには賛成。強制的に親と子を引き離す事には抵抗あるけど、他の子と変らない教育を受けさせる
事が出来る。施設から地域の学校に通えればもっといいけど、いじめとかの問題も出そうですし。
> 犯罪者の子供は一生親の罪を背負わなければならないのか?
背負わせたくは無いです。
が、オウムの子を拒否する本当の理由はその子を透かして見える「存在」だと思います。
だから、目に見える、監視できる体制で背後関係を断ち切れれば、親達の罪と切り離す
ことが可能だと思います。...でも口で言うほど簡単じゃないですよね、きっと。
な〜 です
私も「なんで潰さなかったんだ」の口です。
当時の公安委員も持ち回りだったんじゃないの、って言いたくなる口です。
三つ子の魂百まで、 で、 今から子供の気持ちを変えるのは難しい。
オウムの犯した罪が問題なんじゃなくてオウムの教えそのものが問題。
子供が親の罪を背負うのではなくて、子供もとんでもないカルトを
信じているであろうと考えられることが問題。
そう思えるのですが。
> 子供が親の罪を背負うのではなくて、子供もとんでもないカルトを
> 信じているであろうと考えられることが問題。
いわゆる危険思想、反社会的思想を持っているから、一般社会から排除する。
そうすれば、我々は楽園の中で暮らしていく事が出来る・・・
・・・しかしこれもまた、危険思想ですよね。
特定の主義思想、物事の捉え方とそれを処理する方法は、
1人1人違っていても良いのでは。
ただ問題は、持論が絶対真理と思って行動し、相手に強いることですよね。
特にオウムのようなカルト集団の思想はその傾向が強いから、問題になるのだと思います。
それ故に、地域社会との融和は難しいというか、不可能に近いのでしょうね・・・
「オウムの子はオウム?」この問いかけが思想を指すのなら、Yesですねぇ、残念ながら・・・
改心させようにも、子供達がオウム思想が「悪」だと思っていない限り、改心を促す
行為そのものが彼等にとっては「悪」になるかもしれませんし・・・
持論と他論は一致しなくても良い、基本的に一致しないのだと判らせることが出来れば
オウム思想を持ったままでも一般社会に馴染めるかも知れないけど・・・
あぁぁぁ、わからん!!! (ToT)
ところで話を脱線(^^; させてしまいますが、
> とんでもないカルトを信じているであろうと考えられることが問題。
これって原子力発電関係者や警察関係者、自衛隊までに至るあらゆる集団の中で
生じている問題のような気が(^-^;
(国民に知れたら信用失墜、だから隠すってのは、充分カルト思想ではないだろうか...)
な〜 です
>いわゆる危険思想、反社会的思想を持っているから、一般社会から排除する。
>そうすれば、我々は楽園の中で暮らしていく事が出来る・・・
> ・・・しかしこれもまた、危険思想ですよね。
オウムの場合は思想だけでなく実行が伴っていますから
ちと話が違うと感じますが。
危険思想と言うより我が身を守る自衛手段と思えますが。
>これって原子力発電関係者や警察関係者、自衛隊までに至るあらゆる集団の中で
>生じている問題のような気が
そうですね。
>憲法は絶対ではないと思います。
もちろん私も憲法その他の法律が絶対であるとは思っていないのですが、
不思議に思うのは「オウムへの破防法適用」の際との温度差です。
あの時は、弁護士団体やら何やらが破防法適用を巡ってかなりの慎重論
を唱え、いろいろ議論されたように記憶しています。
私は破防法適用賛成派だったので随分イライラしましたが、
それと同時に、法律の運用に関してチェック機能が働いている
ということに対して、ある意味感心した覚えもあります。
ところが今回の場合、明らかに法律違反(というか憲法違反)であるにも
かかわらず、誰もそのことについて指摘しないことに疑問を感じたのです。
弁護士一家を皆殺しにしたり、地下鉄にサリン撒いて何人も殺した人間
でさえ、弁護士団がついて人権を守るための配慮がなされているのに、
その子供たちの人権はなぜか全く配慮されていない。
法律運用が中途半端というより、優先順位が逆転しているように思います。
…と、理想論を言ってみたところで、該当現地の方々に言わせれば、
「それならおまえの子供が通っている学校にオウムの子が入ったらどうするんだ!」
という反論があるでしょう。まさにその通りで、どの地域も嫌がるに違いありません。
それなら、もしそのような状況に自分が置かれたとしたらどうするか?
私は受け入れたいと思っています。これは別に人道的な立場からではありません。
私だってオウムは恐い。
しかしオウムを排除し孤立させることのほうがもっと恐ろしいと思うのです。
オウムを無力化させる最も有効な方法は、社会に取り込むことだと思うのですが・・・
幸い子供なら一般社会への順応は早い。様々な人間、様々な価値観に触れさせる
ことで社会復帰は可能だと考えます。(もっとも、これは子供だからそう考えるわけで
近所にオウムの道場が造られる、という状況だったら断固阻止します。私は「オウム」
の教義に基く集団は認めません。)
ただし実際入学できたとしても、その子供たちは苦労するでしょうね。
表立っていじめられることはないかもしれないけど、良くても「完全無視」でしょう。
>「オウムの子供達を全員福祉施設などに入れ、そこで教育すればいい」
やはり、これが一番現実的な解決法なのだろうか・・・?
>いわゆる危険思想、反社会的思想を持っているから、一般社会から排除する。
>そうすれば、我々は楽園の中で暮らしていく事が出来る・・・
>・・・しかしこれもまた、危険思想ですよね。
今回の場合はこれにあてはまらないと思います。
オウムの場合は反社会的な「手段」で訴えるという事が問題なのであって、
思想的な問題は切り離されるべきです。
かりに、手段が思想から発しているものであるにしても、
その手段は許されてはいけないと思います。
推理小説ファンが「殺しの美学」を信奉することは仕方ないが、
それに従って行動することは許されない、というのと同じです。
***
今回の場合、子供たちの思想は関係有りません。
怖いのは子供たちを「メディア」として学校に送り込む可能性が
親の側にある、という事なのです。
少なくとも「信用はない」のであります。
信用の有無は、思想とはまったく別の事だと思います。
信用されない、という事は、それだけの実績がないという事であって、
それは回復してもらわなければならない。
社会に信用されなくてもいい、というのであれば、それはこの社会の設備を
否定することになるわけですから、学校は利用しないでもらいたいと
思うのです。
権利と義務、という言い方がありますが、本理は「権利と信用」だと思うのです。
義務を果たしていればいい、という物ではない。
何があったか忘れたの?。
よく考えてみなさいよ、オウムに殺された人達や傷つけられたひとのこと。
その人達の生きる権利はかってな教義でで破壊されたんだよ。
オウムのこどもはオウムでないかも知れない、今は。
イヌがネコ産むか?、サルに育てられたらヒトだってサルになるんだよ。
あんな大馬鹿集団に被害受けた人のこと考えたらよく言えますね。
こんなんで権利だの義務だの、果ては憲法人権だの、ばっかじゃねぇか。
目覚ませよ!!、理屈でないこといまでも平気でやってる連中に何を守れってか。
こどもに罪はないって理屈は理屈でしかなく、説得力ないって。
ダミアンのこどもにだってできるんだよ、今のままならそうなるよ。
それが怖くて拒否してるんではないですか?。
被害を受けた人達のこと考えたら言えるか。
いまだかってごまかして、目を盗んで陰でこそこそやってる連中に信用が出来ないのは当たり前でしょうよ。
お人好しって言われてもしょうがないです。
いい?
物事は、一部分を切り取って、そこに光をあてて判断してはだめなんです
全体を見据えて何が本質か判断しないと
とても危ない結果になりますよ。憲法は適用するものであって
スクエアに全てを当てはめるものではないと思います。
オウムのこどもの権利なら、被害に遭った人達の家族の権利は?。消えていった人の権利は?
憲法に決めてないから知らないって言うの?。
オウムは伝染病です。それも人の命を命と考えない無神経な。
>何があったか忘れたの?。
>よく考えてみなさいよ、オウムに殺された人達や傷つけられたひとのこと。
私も彼らの罪を許していません。被害者の人権は加害者の人権より遥かに重い。
実行犯は「極刑」に処すべきだと思っています。
もし“実行犯があの子供達だったとしたら”たとえ子供だとしても許しません。
(ちなにみ私は死刑肯定論者で、現状の少年法は生ぬるいと思っている口です)
しかしあの子供達は事件には関与していない。(と現時点では思われる)
よって、最低限の人権は守られるべきだと考えます。しかし店長さんや、「チ」さん
のおっしゃるように、憲法は絶対ではない。所詮は人間が便宜上生み出したルール
に過ぎません。しかしこの件に関して言えば、それを無視するには余りにも議論が
なされていないと思うのです。
あと「チ」さんと私で決定的に認識が違っているとすれば、
>オウムは伝染病です。
の部分になると思います。
(もちろん、「伝染」が比喩的表現であることは理解しています)
「思想」は伝染しません。伝染するとすれば特殊な環境が必要です。
周りの社会環境から完全に隔離し、他の価値観に一切触れさせないようにしたうえ、
特殊な環境下に密閉する。そのような特殊な状況においてのみ、伝染するものだと
考えます。
オウムの子供を排除しオウムの世界に隔離するというのは、まさしく「伝染」する
環境を作り上げることになると思うのですが。
な〜 です
伝染病の治療、例えば結核
治るまで「隔離」です。
結核予防法です。
>オウムは伝染病です。それも人の命を命と考えない無神経な。
これは、まぁ日本中の多くの人たちが直感的に感じている事でしょうねぇ。
子供たちは確実に「利用」されるでしょう。それは教義によってではなく、
親子関係という力を利用して。親のいいつけを聞いてしまうと思うのです。
印刷物ももってくるでしょう。
いろんな手あそびや流行語の中にいろんなものを混ぜてくる可能性は
充分にあるわけです。
「チ」さん、あまり感情を激しすぎないように。ここはひとつゆっくり分析的に
いきましょう。お気持ち、とっても察するんですが、まぁ、ちょっとまって。
「わかりきっている」と、思っていることをわざわざあぶり出して、
さらにその深いところにある問題点を探るのがこのスレッドなんじゃないか、
と、思うようになったのです。
手っ取り早く怒るのはラジオ番組にでも投稿すればいいのです。
ただ、ここは反対・賛成という線引きがあいまいになるまで徹底的に問題を分節化して、
その上で「整理」して、決定的な判断を「各自が」持ち帰ることにしたほうがいいと思うのです。
ですから怒りに訴えるのは、もうちょっと、もう一段階だけ待って。ぜひ。
ここは皆さんの思考の熟成をもうちょっと促したいのです。
これから話に入ってくる人がどうもいるような気がして。
まだ考えがよくまとまっていない人も多いことでしょう。
ところでもっと別の視点・論点からこの問題をさばいてみようという人、いませんか?
一人二役でもいいですよ。
そうそう、冷静にですね。
私が言いたい事は、確かに教育を受ける義務と権利が与えられていますが、基礎的な設定基準は何を持って決められたのかですね。
憲法で定められた時点で、どんな人達を基準としてどんな時代設定でどんな社会情勢の下で憲法を定めたのか・・・です。
いやいや、いまさらここで憲法論議する気はないんで止めますが、昨夜は言い方間違えましたけど
「法は適応させるものでなく、応用すべきもの」ですね。
行くつもりなら今までだって行けたんだもの、おかしいですよ。
憲法がどの時代の、どんな人民に、国家の全ての規範の骨格として、決定されたかも含めて考えないといけないんではないですか?。
受けたくとも受けられなかった戦前の教育制度の見直しとして、最低限の教育だけは受けさせたいって作った憲法ですから。
いまだに、オウムは現存してるんですから、子供の教育制度もそれなりにあるはずです。
いまさらいきなりの権利の主張は変です。だからカモフラージュだとして現地の人達は怖がるんですね。
教育を受ける義務や権利は当然わかりますし、その部分だけを照らし会わせれば、断固絶対に今回は違憲です。
KORNさん怒っってたらごめんね。
感情論だけで怒った訳でないんですよ、憲法だって、法や条例だって古くなれば追いつかない現状も事実でしよ。
こんな、事件が起きるなんて誰も思ってなかった諸規範だもの。
既存の法や規則で何とも出来ないのは、私達自身が憲法や法律や政令や条例やらにいかに無関心であったことの
しっぺ返しでもあるんですね。
本来は私達でなく、公安委員会や弁護士会や法曹界や政治家がこんな話しすべきことなんですよ。
根本は法整備の時代遅れと、その基本となっている憲法のカビと、全てそれらに無関心な私達でしょうね。
でもね、川崎さん、正義はそれぞれ個人にあるけど、真実はたった一個だから大変なんですね。わははは〜〜。
やはりここは刺激になって元気がでますぞ!。
人権というのを考えるとオウムの子にとって、オウムからの隔離する事自体が人権を守る事になるのではないかと思います。
以前に松本の長女だったか、次女だったかはわかりませんが、インタビューに答えている様子がテレビで流れているのを見ましたが、自我の形成時期から洗脳されてるとこうなってしまうのか、と更正という事に対し絶望的な思いを抱いた覚えがあります。20過ぎで感化され洗脳されたのであれば、それ以前の状態に戻すという事が考えられますが、オウムの子の場合根本がオウムという事になると非常に更正というのが非常に難しいでしょうね。
もしそのままオウムの中で成長するなら、私たちにとって恐るべきテロリストの誕生という事になるかもしれません。
>本来は私達でなく、公安委員会や弁護士会や法曹界や政治家がこんな話しすべきことなんですよ。
最近、明治時代の人々の動きを集中して研究しているんですが、世の中を変えてきた、動かしてきた人々と
いうのは、常に、「権力の外にいる数人の集団」なんですね。
だから、ここで話をしていることはちっともおかしな話じゃない。どんどん日本を良くしましょう。
はんまーさんsaid
>もしそのままオウムの中で成長するなら、私たちにとって恐るべきテロリストの誕生という事になるかもしれません。
そう、一番怖いテロリストは、自分たちがテロリストだと言う意識がないテロリストなのです。
やはり、守らなければらならないのは、先に住んで、その地域の文化を創ってきた人々であって、
それらの人の意見が優先されるのでなければ、何のためにえっちらおっちら町造りをしてきたのやら、
と、思います。
開かれていることは大事ですが、やたら開かれていていいわけではない。
歓迎される人々もいれば、歓迎されざる人々もいる。それが自然なはずなのです。
憲法はそのあたりの基本的な日本人の行動原理を無視して作っている。
歓迎されざることは、当事者同士の折り合いがあわないから歓迎されないのであって、
そこを権利だとか何だとかで無理やり押し通そうというのは、
それこそ「権力側の御都合主義」だと思います。
オウムを排除するかどうかは、まったく、学校の現場の判断でいいと思います。
受け入れる自信があるかどうか。受け入れてうまくやるだけの作戦があるかどうか。
こういう「対社会コミュニケーションに障害を持った子たち」が普通の学校に入っていいものか。
やはり、それはそれで専門的な修養機関(収容とは書かない)が必要だと思います。
一般の学校に任せるのは、酷だ。
ただでさえ学級崩壊だとか何だとかで、学校は大変なのに。
本人によりコメントは削除されました。 2000年03月20日 14時00分20秒
私はよってたかってオウム関係者を迫害しようとしている
姿をみて、逆の意味で怖さを感じたほうなんですが、、、。
だからといってオウムの子供を受け入れることの問題がないかといえば
おおありで。
でも、その排除の仕方がオウムの子供をひきうけるとどんな問題点が
あってどう困るから反対だって冷静に考えている人たちも数多くいるんでしょうが、
反対している人たちの多くが単にイメージだけで扇動されているように感じてしまい
そこがまた怖くもありました。
もっと色々な意見があってもいいはずなのですが、オウム反対!!だけが全体の意見であるかの
ごとく放映されている映像をみて集団の恐ろしさを感じたわけです。
これが正義だという大儀名聞さえそろえば何の迷いもなく突っ走っていける様は逆の立場での洗脳ではないか
とさえ感じました。
今回のオウムが大惨事となった根本は、個人が自分の心で感じ、自分自身で考えることを放棄し、
これが真実だと教えられた通りに行動した結果おこったことだと個人的には考えてます。
だから、オウムを排除しようとしている姿は
世間から教えられた”オウムは怖い(これは確かに真実ですが)”
に動かされているようにみえてしまうんですよね。
当然何らかの形で被害にあわれたかたをのぞいてですけど。
こんなことをいってしまうと自分は蚊屋の外だからそんなこといってられるんだ
っていわれてしまうのを覚悟で敢えていってるわけですが。
(実際そうなんだと思います。)
わたしの常日頃の考え方のパターンは、自分でこうだと信じると同時に”ほんとにそうか?もっと別の立場
から考えたら違う考え方もあるのでは?”と常に自問自答するわけで、、、
そうなると、答えはひとつではないんではないかなあと思うんですよね。
もっと、角度をかえてみる必要もあるんじゃないかなあと、、、、。だから、つい世間とは違う考え方を
したくなってしまい、ちょっとあまのじゃく的ですね。
そんなわけで上記のようなことをいってみたわけですが、
私自身、子供は関係ないじゃないか。子供の教育を受ける権利はどうなる??って思ってたくちですが、
現実問題として考えるとやはり、オウムの子供達を無条件にひきうけるのには
かなり問題があるようですね。皆様の御意見を聞かせていただきそれを実感しました。
子供が当然もっているはずの学校で教育を受ける権利が何故受け入れられないのか!
オウム真理教を信じていくことの重みっていうものををその親が真剣に考えるべきでしょうね。
社会的に認められない宗教を信じながら、その一方で社会制度にのって教育をうけさせよう
というのはちょっと甘いですね。子供に一般の学校教育を受けさせたいのであれば
オウムを脱会すべきでしょうし、もしくはそれができないならば独自の教育方法を
考えざるを得ないでしょうね。
ただ、子供自身が親と縁切ってでも普通の学校にいきたいと訴えてきた場合。
行政の受け入れ体制ってあるんでしょうか。
な〜 です
私はオウムが自主解散、ないしは教義を放棄しない限り
オウムはなんら以前と代わりのない集団だと思います。
自主解散しないところにオウムの怖さを感じますね。
オウムの教義をよく知りませんがテレビでは未だ危険な教えを
信じているとのことですね。
他人の生きるという権利を奪うことを正当化することが教義の中にかかれている
としたら、その宗教を信じている人の権利を保護するというのは、
えっ、どうして?
と思いますね。
憲法の恩恵をあずかる権利は、憲法の中での制約を守る人でしょ?。
カルト集団であって、あまねく微細な間違いをしている私ら愚民とは違うんですよ。
教義があって、それが命を教義で軽んじている教えは「殺されたくない自由」を無視してるんですから。
法の加護を自分達にもって、今更主張は出来ないではないんでは?。
「過失」でも「密必の故意」でも「遺恨」でも「逆恨み」ない「用意周到の計画の中」での事件は全てで初めての
私達の経験だったはず。
同胞によるテロそのものなんですね。
テロリストの子はテロリスト?っ問われれば、違うって言いたいけど、オウムの子はオウム現役の親の子ならばそうです。
オウムの子にあっても、切り離して教育出来れば問題ないんですけどね。
原則的な基本常識を反省も守れもしないままでいる親の、いまだに変わらない育て方の子供を受け入れられないのは
しようのないことではないんですか。
オウムの親とその子が切り離せる状況環境が作れないなら、反対に学校に自分の子を行かせない親もでるかも。
全てはオウムの責任なんですよ、解散して、きっちり詫びてその危険な教義を捨てて、どう出直すのか説明して初めて
憲法の対話問題に付けるわけですよ。
今のままでは「細菌兵器抱えた子」で排他されるのは子供には気の毒だけど、命を命と考えないオウムでいまだある
以上、世の中を敵に回したからには、リスクは親として背負うべきです。
子供に罪はないですよ、確かに、でも教義を背負ったまんまで育って
将来にまたサリンを彼らが撒くんでは?ってんは考えすぎですかね。
感情論ではないですよ、法を主張するんなら、周到で計画的な事件起こした結果を、いまでもきちんとしない親の言うこと守る法律はないって思いません?。
時限爆弾を(たとえです)育てていると思われたら、どこの国だって、排除されて当然です。
権利の主張するなら、最初から最低の義務果たさなきゃ。
普通の犯罪でないのだから、犯罪には平等はあり得ないモノ。
事件の中の一部分だけ切り取ってのこういう話は、話のタネにはなってもとらえる観点で真っ向違ってくるんすね。
真実を追いたいのか、正義を求めたいのか、で分かれるんですかね?
でも今日はあの日でしたね。
形而上やら一過性の感情論の応酬でなければよいのですけど。
昨夜日テレだかの番組で、ユナボマーを讃える次世代な共産主義?に
燃える若者が取り上げられていました。
そういやこの季節、どこの大学でもいい年こいたおっちゃんが、せっ
せと大学非公認な看板を作って新入生をお待ちしている訳です。
よって私にあっては、学校に来て欲しくないのはカルト信者に限らず
極が付く右や左、緑、畜生愛護団体関係者もなのですけど。
ただし思想の問題はさておき、宗教は洋の東西を問わず人間が本来
持つ逃れられない様々な不安から生じているのですから、単に学校に
来て欲しくないとわめくだけのスポット対応は悲しいですね。
その昔×の家族とか言う、幼児への性的虐待を教義に含む?カルトな
方々がテレビのワイドショーで叩かれていました。
司会者が「来週あなた方と討論しましょう」といったまでは良かったの
ですが、肝心の来週になるやいなや、例の合同結婚式に出席したTVタレ
ントの話で討論などどっかへいってしまい、その×の家族はTVで二度と
取り上げられることはありませんでした。
まぁ、討論というか責められずに済んだあの方々はさぞかし喜んだで
しょう。登校に反対している地元の方々の意識がこの程度でなければ良い
のですが。
#真言立川流?ってのもあった気がするけど、まだあるのかなー。
重箱の隅ですが(^-^;
「オウムが大惨事」よりは「オウムが大虐殺」の方が実状に合うかも。
> 憲法の恩恵をあずかる権利は、憲法の中での制約を守る人でしょ?。
「チ」っすさん、見事です。その通りです。
大虐殺という、恐ろしいほどの反社会的行為を一切償おうとせず、憲法違反を
今も侵し続けている集団に属する人間...それがたとえ子供だとしても、
憲法にある権利を主張することは元々出来る訳ないですね。
・・・なぜ、我々と同じ「法治国家」で、のうのうと暮らして居られるのだ?(?_?;
奴等は本来、高い塀に囲まれた完全監視下にて隔離生活させるべきなのだな。
それをせずに、我々と同じ社会で暮らすことを黙認されている。
誰も許しちゃいないはずだが、現状のその状況が奴等に憲法で保障された権利を
行使できる、と勘違いさせているのだな。
となるとこの問題、地域や学校という「現場」では絶対、対処しきれないのでは。
日本政府の対応プロセスに致命的な欠陥があり、その尻拭いを現場に任せている
だけでは。となると・・・小渕さんにキッチリ対応して貰わねば。
今の話のありようとしては、何だか「禁じられた遊び」の世界ですよ。
元を正せば発端は子供ではなく間違いなく大人なのですけど、責任は
子供に求められているようですね。
そいつはさておき、
オウムのPCショップに70億だか売上があったのは、虐殺なんておいら
にゃ関係ないと思う人やら、彼らの安さを求める人が一般人の内にそれ
だけ居たわけでしょう。
形だけオウムを非難してみたところで何も変わりませんね。家族を
毒ガスで殺された人の家族にとってみれば、もはや憎いのはオウムだけ
じゃないでしょう。
あの事件からもう5年もたつのですね…。亡くなられた方のご冥福を祈るとともに、
今でも後遺症に悩まされている被害者の方々が一刻も早く回復されることを祈ります。
>KORNさん怒っってたらごめんね。
いえいえ、怒っていませんよ。それどころか私の本音の部分では「チ」さんの言葉に
100%共感しています。しかし、今回はあえて本音とは別の部分でこのスレッドを立て
ました。「オウムの罪は許されることでなはい」これについては、ここに参加されてい
る皆さんの共通認識だと思われます。「権利を主張するのなら義務を果たせ」これに
ついても異議はありません。「憲法は絶対ではない」これにも同感です。
それならこのスレッドを立てた理由は何なのかということになりますが、実はこのスレ
ッドの問題提起は「オウムへの批判」とはちょっと違う方向を向いているのです。
例えば、この就学拒否の件でオウムが「憲法違反である」と訴訟を起こし、義務教育
を受ける権利を主張したとします。さらに弁護士団体やら人権団体やらが「違憲」の可
能性を指摘し、地域住民やマスコミを巻き込んだ議論が巻き起こった・・・・・・
という展開になったとしましょう。(私は当然そうなるものだと思っていました)
そのような状況下であれば、私の主張は「ふざけるな、権利を主張するのなら信用を
得てからにしろ!」と、このようになるでしょう。しかし現実はどうかというと、マスコミを
含めて誰も義務教育の権利に触れようとしません。「相手がオウムだから当然」という
空気が日本中を覆っている。Keiさんも指摘されていますが、
>もっと色々な意見があってもいいはずなのですが、オウム反対!!だけが全体の
>意見であるかのごとく放映されている映像をみて集団の恐ろしさを感じたわけです。
私もそう感じました。
もちろん「違憲発言」が多数派になってしまうのはどうかと思いますが、全く出ない状況
も恐ろしいと考えます。オウムの子が駄目なら、金銭がらみの連続殺人犯の産んだ子
はどうなのか、精神錯乱で殺人を犯した人間の子はどうなのか?
言い出したらきりがありません。「親の犯した罪」とは切り離して、そういった切り口で
この問題を考えてみることも重要ではないでしょうか。
ここまで議論して感じたのですが、やはりポイントは「オウムの子はオウム?」ということ
になるかと思います。あの子達からオウムの教えを排除できるのか、それとも三つ子の
魂は百まで続くのか、この部分を冷静に議論する必要があると思います。
いずれにせよ、このままオウムの子供を拒否し続けることは、結果的にオウムの子供を
オウムに集団に閉じ込めることになるでしょう。そうなれば生まれながらの純粋なオウム
が作り出されてしまう。私にはそれが一番恐ろしいことのように思えます。
・・・ただ、実際問題オウムの子の教育を特定の地域や一般の学校に託すのは、やはり
無理なんでしょうね。この件については、実のところ私も専門機関による「修養」が最も
現実的な方法である、という結論に達しつつあります。
実を言いますと、当初このスレッドを立てた時、私の批判の矛先は「オウム」に対してと
いうより、むしろ、色々な問題があることがわかっていながら沈黙している「有識者」に
対して向けておりました。
少年が重大犯罪を犯した場合でさえ、「その子の人権は擁護されるべきである」と主張
する有識者や、弁護士団体がいます。私の考えとは少し違う場合もあるのですが、
それはそれとして、このような主張を述べることは大切なことだと思います。
(実際“少年法”で守られている訳ですし…)
しかし、オウムのような「従来の常識をはるかに超えた重大犯罪」になると沈黙してしま
うのはどういうことでしょう。同じ事は「死刑廃止論者」についても言えます。なぜ、オウ
ムの場合だけ沈黙してしまうのか。逆にこのような極悪犯罪の場合のほうがその意義
が問われるのではないのか。
しかし今回のことでわかったような気がします。結局はそこまで物事を深く考えていない
“えせ人道主義者“ばかりだったということなのでしょう。私は今回このことに一番腹を立
てています。それなりの覚悟がないのなら簡単に「犯罪者の人権」とか「死刑の廃止」等
と主張しないでいただきたいのです。
・・・こんな事を書くと論点が増えて混乱させてしまいそうですが、本来私が論じたかった
のはこちらの方向です。ただ、今の流れでは(ある程度予想していましたが)やはり
「オウムへの批判」の方向に話題が集中しているようです。それはそれで構わないと思
います。そこで、今度は私もオウムそのものに対する批判を書いてみるつもりです。
一時期ワイドショー番組がオウム一色だったとき、その論調は「オウムはこんな信じられ
ないことをしている、我々には理解できない」というものが多かったような気がします。
確かにそうなのですが、なぜ彼らがそれを信じるに至ったのか、「宗教的な側面」から解
明する必要があるのではないかと思うのです。
(殆どのマスコミは“マインドコントロール”の一言で終わっていました)
・・・今はちょっと時間がないのですが、次回はこの点について私の考えを述べてみようと思っています。
な〜です
Yahooさんの安いからオウムのPCを買うとの指摘がありましたが
知らないで買っている人も大勢いると思うんですよ。
知らないでオウムにソフトを頼んでいる役所があるくらいですから。
問題なのはオウムを名乗らずに(名乗れば買わないから)安いPCを売って資金を稼いでいる
彼らの体質だと思うんです。
オウムの子供が義務教育を受ける権利がある、そうだと思います。
でもオウムと関係ない子がオウムに洗脳されることなく義務教育を受ける権利も
あると思います。
結局オウムの子は特別な義務教育課程を受けるのは仕方ないのでは。
私はなぜ今でも破防法を適応しないか疑問です。
向こうは頭の切れるやつが一杯いるわけだからこちらがまともに
考えたらだめですよ。
建前とかじゃなくて本気で考えないと私も思います。
な〜 です
>オウムの子供が義務教育を受ける権利がある、そうだと思います。
>でもオウムと関係ない子がオウムに洗脳されることなく義務教育を受ける権利も
>あると思います。
つまり補足しますと
オウムが子供の教育を受けさせる人権を盾にとって裁判を起こせば
一般の子供がオウムの子から影響されなく教育を受ける権利
もしくはテロリズムに巻き込まれることなく教育を受ける権利
ということで裁判を起こすことも可能です。
オウムはそれほどのカルトと思います。
単なる思想集団ではありません。テロリストと思っています。
ここら辺で司法の判断を仰ぐべきでしょう。
な〜さんのを読んでて、単純な疑問が思い浮かびました。
義務教育って、何?
単に子供に教育が必要というならば、「義務教育システム」に頼らずとも
要求を満たすことが可能です。勉学は家庭教師や塾、情操教育は読書、
道徳教育は教育テレビ・・・って、これは昨今のコドモも見てないか(^-^;;
とにかく学校に行かなくても知識と教養を身に付ける事は可能です。
非登校(っていうんだっけ?)の児童も時間は若干余計にかかるけど、
義務教育程度の学習をして社会に出る事が出来ます。
通信教育というのは、かなりポピュラーなのでは。
こんな事を前程にオウムの連中の主張を吟味すると・・・なんか変ですね。
オウムなんで、奴等の教育なんざ戦時中レベルなのでしょうが、逆にそれが
ベストのはず。一般の学校などに入学したら、彼等にとっての「教育」には
悪影響でしか無いはず。
なのに入れる。なぜ入れる。入れることが目的? 入れた後に何かある・・・?
・・・ヤバイ。ひっじょ〜〜〜ぅに、ヤバイ。
奴等が権利を主張して云々は、引っかけだな。
オウムの子供達は、正に道具として使われようとしている寸前なのかも。
早急にやるべき事は、子供達の身柄をオウム信者達と引き離すことなのでは。
>#真言立川流?ってのもあった気がするけど、まだあるのかなー。
・・・立川流ですか、なかなかおもしろい例ですね。
ちょっと引用させてもらいます、Yahooさん。
立川流は男女が何年間も交わり続けることを修行とした、いわゆるSEX教団
なわけですが、オウムと同じく「邪教」とされてきました。たしかに一般的な価値
観からすると、とんでもなくいかがわしい教義です。また実際、胡散臭い活動を
繰広げていたようです。しかし元々の教えは『男と女は一心同体。その結果生
まれる生命は尊いものである』というものだった。よってここだけ見ると素晴らし
い教えのようにも思えます。また世界中の宗教を見渡してみても、立川流ほど
女性を男性と平等に定義した宗教は珍しい。
(通常、宗教の教義は男尊女卑的なものが多い。最近では修正されていますが…)
つまり教義自体を深く知れば、一般的な常識からそう外れるものではない。
むしろ考えさせられる点もあります。元々の教えが立派だからこそ信者が増え
ていったといえるのではないでしょうか。ですから、その教えを熱心に信仰する
信者に対し、宗教活動の表面だけとらえて「おまえたちは異常だ」と言ったと
しても、信者からしてみれば「わかってないのはおまえ達だ」と感じるのでしょう。
よって、ある宗教を批判するにはその教義を把握し、その教義の何に信者が
惹かれたのか理解した上で批判しないと逆効果です。
かえって「こいつらは何もわかっていない」との思いを深めさせることになります。
(マスコミのオウムに対する取材で、私が不満に思ったのはこの点です。
あの程度の認識では上祐に言い返されても仕方がないかな、と感じました。
あれを見た一般信者は自分たちの「正義」をより確信したことでしょう)
基本的に、宗教の教義には悪いことは書かれていません。
ですから、たとえオウムの教義にも「教団のためなら人を殺してもよい」などとは
書かれていないはずです。(逆にそこにカルトの罠があるわけですが…)
真の宗教とカルト宗教との違いは、教義の違いというよりそれを解釈する教祖
の質の違いのように思えます。オウムの教義は仏教をベースに(かなり歪めて
いますが)キリスト教の終末思想を加えたものです。
新興宗教にありがちなパターンの教義といえますが、どこが問題かといえば
“終末思想”すなわち 『絶対的な神が存在し、いつの日か最後の審判が下され
る。その時神を信じる者は救われ、そうでない者は地獄に落ちる』の部分になる
と思われます。これを麻原が『信じない者は地獄に落ちる → 殺してもよい』と
拡大解釈したのでしょう。(同じ過ちはキリスト教徒も“十字軍”でやらかしてますが…)
これは重要なポイントで、彼らは「悪の教義」を信仰しているのではなくて
それを制定した「教祖」を信仰していたと考えられます。
(その「教祖」が狂っていたということです)
よって組織を解体して、自分の正義を自分一人で考えなければならない状況
になった場合、彼らは本気で悩むのではないかと思うのです。
以前のオウムは“何をしでかすかわからない怖さ”がありました。
それは教祖がトチ狂って「自分は神である」と思いこんだせいですが、これは
新興宗教とはいえ、あれだけの規模を拡大した宗教団体では珍しいことです。
あのまま見かけ上法律さえ守っていたら一生贅沢三昧できたのに、教祖自ら
テロ行為を指示するというのは考えられないことです。宗教の教祖としては
3流ですが、その場限りのテロリストとしては1流(?)だったといえます。
本当に狂っていたのでしょう。
しかし今のオウムにはその“怖さ”はあまり感じられません。
性懲りも無くパソコンを売って資金を稼いでいるようですが、そこに感じられる
のは“なんとか組織を維持したい”というある意味、俗世間的でわかり易い理由
です。名前を変えて組織の延命を計ろうとするのもその現れでしょう。
自分たちの行動指針だった“教祖”が逮捕されたことで、自分の生き方は自分で
決定しなければならなくなった。今後の組織運営について、彼らは本気で悩んで
いるように思えるのです。
だから許してあげようという意味ではありません。
今こそ解散させるチャンスではないでしょうか。オウムの子の就学問題では実際
のところ憲法すら無視しているのに、なぜ破防法の完全発動を躊躇する必要が
あるのでしょうか。破防法に問題があるなら「テロ対策新法」でも制定すれば良い。
この件について、人々はすでに「本音」で動いています。
どちらにしろ、今の状態は「法治国家」とは思えませんね。
> 知らないで買っている人も大勢いると思うんですよ。
> 知らないでオウムにソフトを頼んでいる役所があるくらいですから。
無知は罪です・・・と斬って捨てるとアレですが、オウム系ショップからの購入に
ついては、たとえ知らなかったとしても買った人が罪人、として良いのでしょう。
だいたい、悪いコトしてる連中は「私は悪人だ」...なんて宣言しないし(^-^;;
オウムじゃなくてもいいです。暴力団系とか、悪徳宗教法人系とか、色々あります。
メッコールなんて有名ですし。
もちろんこれは政府の対応の不味さが露呈している訳ですが、少なくともオウムショップで
何か購入した人は「加害者」側に回るんですよ。彼等に活動資金提供した事になるから。
一方「被害」は原則的には生じません。売買は成立しているから。
トラブルなんて、大手メーカーでだって発生してるし。
で、役所ですが、これは役所の体質も大きく関わってますね。
役所というのはこの手のシステム発注で、末端となる会社には零細企業を選択する
クセがあります。きっと、何か問題があった場合に会社ごとぶっ潰すことを前程に
品定めしているのでしょう♪ そう確信する理由はあるけど、ヤバイのでこれまで(爆)
以前秋葉で働いていたことがあるのですが、当時、あのチラシを持ってきた客
に、それがオウムのショップだと知っているかどうかずっと尋ねていました。
マハポーシャを名乗っていた頃は確かに知らない人も多かったのですが、地下
鉄サリン事件以降は殆んどの人間が、それらショップの正体がオウムであると
認識しており、かつリピータでありました。リピータであった理由は、「2度
と問題を起こさなければいいんじゃない?」という、非常に軽いノリでしたね。
役所についても一つ。
基本的に某官公庁では、署内にて作業する人間の本籍などの一覧表の提出を求
められるのですが、入署しなければ特に提出を要求されるものではありません。
かつて機密に関わる人間は厳しく調査されていたのですが、このような調査を
止めさせた政党があるのです。
#政党の名前は言わなくても分かりますよね…。
さて、具体案に乏しいようなので少し考えてみました。
学校は、義務教育云々というより社会性を育てる場所であると思います。地域
社会から引き離すことによって、非社会的人間から反社会的な人間に変貌して
危険度を増やすのが得策だとは思えません。通わせないよりは通わせた方が
結果的によいと思います。
社会不安がある限りこの手の騒動が耐えないならば、通学を拒否するだけでは
なくて、宗教の問題に面と向かった対策が必要であると思います。
嫌がられるかもしれませんが、そのうちどこかの市長にも考えを聞いてみますか。
1. 問題の親子の親族の宗旨を調査する。
2. 親子共にカウンセリングを受けさせる。その結果必要であれば子供を親族に
預けさせるか、施設に確保する。
3. オウムとは単なる結果の一つであり、宗教の問題は誰にでも起こり得ること
と認知されるよう地域に広報、周知徹底する。
4. 義務教育期間中において小グループによる討論とメンタルケアの時間を設
ける。
高校や大学入学時には、「こんな勧誘にはひっかからないように」とかいう注意
書きをよこしますが、心の問題を紙切れ一枚で済ますのではなく、もっと真剣に
取り組むべきでしょうね。
な〜です
オウムと知って買っているとは許せませんね。
私はある人からインターネットで安いPCを売っていると言われましたが
あまりに安いからオウムかもしれない、とも言われました。
買いませんでしたが。
インターネットは相手の顔が見えないので心配なんです。
何を売っているかわからない。
オウムからは、ずれましたが
オウムを宗教団体として考えると、その教義は他の数多の宗教と大差ないのかも。
それは逆に宗教団体として見てしまうことで、「怖さ」が薄れてしまう事になるのでは。
仮にオウムの教義は「ハリボテ」で、実体は全然違うとしたら・・・
宗教組織を維持するだけなら、御布施を巻き上げるだけで充分です。
大々的にパソコン販売事業を展開する必要なんか、ありません。
店長の、
> オウムの場合は反社会的な「手段」で訴えるという事が問題なのであって、
> 思想的な問題は切り離されるべきです。
というスタンスを基にして、思想を別にしてオウムの「力」を評価するなら、
現在の奴等はサリン事件前よりも遥かに大きく、強くなっています。
> 自分たちの行動指針だった「教祖」が逮捕されたことで、自分の生き方は自分で
> 決定しなければならなくなった。
これを逆に考えると、目障りな「教祖」を組織から追い出すことにより、自分達が
やりたいことを自由に出来るようになった・・・と考えるのは、間違いだろうか?
名称を「アレフ」にしたのも、意味するものは松本一族とそのシンパとの決別だけ。
松本の娘の件も、「膿み出し」のシナリオの一部に過ぎないのではないか?
・・・色々考えてたら、今のオウムって、前のオウム以上に油断ならない存在に
大きく成長しているように思えてきました。
な〜 です
>・・・色々考えてたら、今のオウムって、前のオウム以上に油断ならない存在に
>大きく成長しているように思えてきました。
私も同じような危機感を持っているのです。
ちょっと言葉足らずでした。
私が言いたいのは、カルト宗教を「教義」で判断してはいけない、ということです。
「オウムは悪の教義を信じて行動した。自分は悪の教義など信じないから大丈夫」
と思っていると判断を誤る可能性があるのではないか、という意味です。
日本にはオウムの他にも、テロ行為をしていないというだけでオウム並みに悪質
なカルト集団はたくさんあります。だから「この教団はオウムと違って“立派な教義”
だから大丈夫」と思うのは危険である、と言いたかった訳です。
その意味において、yahooさんの主張する、
>3. オウムとは単なる結果の一つであり、宗教の問題は誰にでも起こり得ること
>と認知されるよう地域に広報、周知徹底する。
に賛成です。
私自身は無神論者ですが、信仰そのものを否定する気はありません。
カルトとそうでない宗教を見分けるのは困難です。カルトといえどもある程度人が
集まるということは、人によってはそれなりに説得力のある「教義」を掲げてている
のでしょう。実際オウムの教義で心が癒され、救われた信者もいるのかもしれない。
大切なのは、自分の頭と心で考え判断することではないでしょうか。
その観点から考えると、教義ではなく教祖を絶対視する宗教は怪しいといえます。
そもそも、自分の中でしっかりと教義を信じていたら、教祖などいらないはずです。
>これを逆に考えると、目障りな「教祖」を組織から追い出すことにより、自分達が
>やりたいことを自由に出来るようになった・・・と考えるのは、間違いだろうか?
これについては私は前のレスで書いた通り、違った見解を持っています。
現時点では、事業の利益を損なう恐れのある「テロ行為」は控えるのではないか、
よって今が強制解散させるチャンスである、と思っているのですが…甘すぎるかな?
しかし、最悪の事態は考えておくべきでしょうね。
私は「破防法」には賛成ですが、唯一躊躇する理由があるとすれば、それは
「政府の暴走…云々」ではなく、強制解散によりオウムが自棄糞になってさらに
凶悪なテロ行為を行なうのではないか、という点です。
ですから、
>名称を「アレフ」にしたのも、意味するものは松本一族とそのシンパとの決別だけ。
>松本の娘の件も、「膿み出し」のシナリオの一部に過ぎないのではないか?
これが真実だったとしたら、慎重かつ迅速に対処しないと…本当に恐ろしいことになる。
政府は本当に危機感を持って対処する気があるのだろうか?
そもそも、なぜオウムのソフト会社やらPC販売店が営業を許可されているので
しょうか。行政は何をやってるんだろう?
>教祖を絶対視する宗教は怪しいといえます
教祖を絶対視するから宗教なんですよ。
そうでなければ「なんちゃって宗教」でしょう。
危ない宗教なんて人の数だけありますよ、でも、しないものは何もしないんだもの。
言うだけで、だからパロディと思って許したオウムの活動だったはず。
それがこれだもの、みんなが右往左往してるんですよ。
どうしていいかわからないってのが、法曹界にからんだ人達でないんですか。
憲法と、法律と、裁きと、弁護と、住民感情と、社会正義に晒されて主犯をどうしていいかわからないみたいです。
この事件のけりがつくまでは、無理でしょう。
オウムの子はオウムで、今のままでは拭えませんよ。正義ではないと思いますが、真実だと思います。
お互いが権利を主張しあったら、ケンカにもならないことを何故にオウムが主張するのか、考えたら不気味ですよ。
憲法を背中に背負って、自らの過去現在にも続く自己完結の理論も捨てずに、厚顔無恥な行動には言葉もないっす。
PCに関しては、行政は、あくまでも形式手続きの世界ですから、届け出書類の中味の確認はできません。
オウムが違う名前の会社名で登録すれば、わかりません。
手に負えない相手ですよ、半端でないんです変な宗教のシンクタンクは。
うん、オウムの子はオウムでなくとも、オウムの教えは聞いてるんでないの?。
だいぶこのスレッドも長くなってきました。
そろそろ各自決定打を打って、新しいスレッドで少し軸をずらして話を続けませんか。
ただ形式的に移っても面白くないし、長いからという理由だけで移るのもなんだから。
移るという時を遊びましょう。
決定打は、それぞれ自分なりに現在考えている事をまとめてみてください。
このスレッドの流れに直接沿っている必要は特にないと思います。
むしろ、このスレッドを経験して、それぞれの意見がどのくらい融合していて
どのくらい融合していないのか、それぞれが把握できると思うのです。
絶対的な融合はないにしても、違いを意識しあうことでオピニオンを共有することが出来る。
***
では、私の決定打です。
>教祖を絶対視するから宗教なんですよ。
そうですね。それが「信仰」の本質だし、キリスト教なんかは「契約」という言葉まで使って
絶対視しています。仏教だと「帰依」だし。
日本の宗教の立場は世界的にもちょっと珍しいところにいます。
皆さんならご存じとは思いますが、日本の場合常に表と裏がワンセットで補完しつつ
動いているという文化的特徴があって、たとえば、外交や政治の表情報を綴るために
漢字(真名)が使われたのに対して、内政的な情報や政策コンセプトといった裏側の
情報はかな(仮名)がつかわれてきました。近代までは皇室を中心とした和歌による
政治的意思の伝達はおこなわれていましたが、和歌はかな文字のメディア。対して、
法律の文章はつい半世紀前まではカタカナ(漢字の簡略形であり、真名)が使われて
いました。
また、京都御所の造りも、全て外交と物理的な骨格を担う表側と、国内の精神的統治を
司る内裏(裏側)で構成されています。
この構造は実に一般生活のあちこちにわたって普及していますが、日本人の精神構造には
表と裏の存在を認めて、どちらもそれぞれの特性に沿って機能させる事を身につけています。
戦後、だいぶへたくそになって、かなり形骸化した使い方をしていますが、構造だけはまだ
われわれの考え方の中に残っています。
このあたり、自意識とプライドが高く、駆け引きでall or nothingの選択に走ってしまいがちな
アジア文化圏のなかで、日本が解決方法として身につけたユニークな方法であると思います。
(建前で×でも内心で○というのがアリ、というやりかたは、実は国家・文化の発展には不可欠
だった)
日本では、明治の一時期を除いて国教というものを特に持たなかった。いや、実は政治的に
調整できない部分を、寺や神社、またはさまざまな「講」に委ねて細かく調整させるという
実に緻密な統治手法を行使していたわけです。
たとえば信長は日本の近代化のためにこのシステムは邪魔だと考えて有力寺院などの
焼き討ちをしたり宗教儀式の形骸化を自らすすめたりしました。彼のような一括統治
タイプの人間には表裏という二重構造の統治システムは気に入らなかったのでしょう。
ともあれ、統治の骨格は法令を発し、その施策思想や細部への導入にあたっては各地の
宗教施設を利用した(全国の国分寺なんてのは東大寺を核とした情報ネットワークだった
わけで、政策の基礎となる情報を経典に委ねて発信していった)わけです。また、自由闊達
に動く放浪の宗教家を許すことで、全国の情報網を機能させていったのです。さまざまな
情報はそれぞれの宗教家が持った宗教的な言葉を介して自然に伝えられてゆきました。
それが薬や工芸、芸能といったものを波及させていったという事もあります。
ところが、明治政府のヨーロピアンコンプレックスは廃仏毀釈という大馬鹿をやらかして
しまったわけです。それまで国民の本音の部分を支えてきた自由信仰のシステムを壊して
(多くの神社を統廃合して)国家神道というものを造ってしまった。これで表も裏もなくな
ってしまったわけです。以来、政府は民意を把握することも、民意を柔軟に説得することも
できなくなってしまった。実に薄っぺらなシステムができあがってしまったわけです。
戦後、国家神道は廃止されましたが、江戸時代までのシステムが継承されないまま宗教の
自由化が行われてしまったものだから、国家と宗教家の連携がまったくうまく行われていない。
いま、これを建てなおそうとすると大変なことになってしまうのはおわかりですよね。
政治家からみて宗教は票田にしかみえないようだし、多くの宗教にとって政治は神の行いの
具現化手段としか映らないようです。こんなことではうまくゆくわけがない。
戦後の日本人の精神的荒廃とか、日本人の政治離れ、信仰的土壌の喪失の原因は、およそ
この「裏の喪失」にあります。表だった政治システムで細部にわたって物事を解決したり
すすめたりするのは、実は日本人の性質にはあわないのだと思います。(例えば立ち小便を
軽犯罪法で取り締まっている、なんてのは愚の骨頂。江戸以前ならばそういう些事は土地の
信仰や智恵者によってごく柔軟にコントロールされていたわけです)
こうして、暮らしがどんどんギスギスしてくる。
穴を埋めようとして、いろんな人が神がかってみたけれど、自分が神にならなければ
ならないので多くは破綻してしまっている。オウムも既に宗教としては破綻してしまって
いる。
本来、神が絶対視されるべきで、教祖は絶対視する立場の第一人者であるべきなのです。
いや、自然発生型の宗教はすべからくその形態をもっている。
だから、信仰する側は神の言葉と教祖の言葉の両方を聞いて、それぞれ判断することができる。
そして、両者が違っているな、と思った時に、疑問として教祖に質問することができるわけです。
そこで突っぱねるか、諭されて融合点を探すか、悔悟するかはそれぞれの度量に従うところですが
たとえばプロテスタントはそうやってカトリックから独立していったわけだし、
仏教もイスラム教もこうして細かく別れていった。
こういう「信仰のシステム」が教育されていないという問題は大きいですよね。
だからオウムの信者は仏典と麻原の言動の両者を量って聴くことをしなかったし、
なにより、自らが神のように称している者とどうつきあっていいのかわからない。
***
>お互いが権利を主張しあったら、ケンカにもならないことを何故にオウムが主張するのか、考えたら不気味ですよ。
>憲法を背中に背負って、自らの過去現在にも続く自己完結の理論も捨てずに、厚顔無恥な行動には言葉もないっす。
本当なら、彼らは日本政府の骨格に沿って日本人の本音の部分を救済するべきでした。
しかし、彼らは国を造ろうとしてしまった。宗教の立場を見誤ってしまった。
これは大いなる間違いだと思います。
彼らの信仰をうち消すことはできないけれど、日本社会の支柱となることを拒否している以上、
この教団は存在してはいけないのだと思います。
できれば、山中にでも封鎖してしまいたい所なんですが.....それができない「現代」が憎い。
以上、本音でした。
建前は?
もちろん「そりゃ彼らだって良かれと思ってやってるんだから、認めるところは認めてあげなくちゃね!」です。
本音と建前、どちらも私の考えです。どっちが上というわけではないし、
どっちも嘘ではないのです。
重隅で突っ込みします。
仏教にはそもそも「神」あるいは「生き仏」のように、自分の心の中にある神以外に
崇拝すべき対象はありませんでした。
*善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや*
という言葉の一般的な意味はご存知かと思いますが、この言葉の正しい?解釈では、
善人とは小乗仏教をいい、悪人とは大乗仏教のことを指しています。すると法然、
親鸞あたりがこの言葉を使った意味が分かりますでしょうか。
本来仏教は真理を追求する自己研賛が考えの始まりであり、人間あるいは何かを崇
拝することが目的ではありませんでした。仏教の考えでは、生命の源が何か知らん
があって、これをダーマと呼ぶことにしましたが、これ自体は神としてあがめる対
象ではありませんね。
お釈迦様自体は単なる人間にしか過ぎず、人格者として尊敬こそすれ、偶像を作っ
てあがめ奉るのは、大元を辿ればおかしなことなのです。そもそも釈迦は自分を頼
る弟子を叱っていますし。
#ただしお釈迦様自体は、解釈が分かれていく(様々な宗派に分かれていく)こと
#は認めていました。
だから正月とかにお寺に詣でたら、何かお願いをするのではなくて、本当は「私も
仏様にあやかりたい」とか、「そんな子供をさずかりたい」と思うべき?なのです。
#子褒めかい(^^;
それを鑑みればキリストにおける神学とはおかしなもので、神の存在を前提として
神の言葉の解釈を色々試みようとしているわけです。実在が云々されない点につい
ては、なんだかシャーロック・ホームズの研究会と同じようにも見えます。
恐れや苦しみを昇華させる自己合理化の道具として宗教あるいは哲学が必要とされ
てきたわけですが、これが自我放棄(崩壊?)の要素を帯びてくると、厄介なこと
になる訳です。
もはや宗教における救世主あるいは、大乗仏教的な思想を考え直す時期に来ている
と思いますね。
私も決定打を出す前に「宗教」についてもう少し述べます。
(興味のない人は飛ばしてもらって結構です)
>教祖を絶対視するから宗教なんですよ。
正確には「新興宗教は教祖を絶対視する場合が多い」ではないでしょうか。
一般的な宗教は、神の教えを最も理解した者として教祖が存在し、
神の言葉として教義が存在する。
だから絶対視すべきは教義であり、その後ろにいる神(真理)です。
しかし新興宗教の場合、教祖が神を兼ねている場合が多いので教祖の言葉
がそのまま教義になり神の言葉となる。ところが神といってもその正体は
1人の生身の人間だから、実際のところ判断ミスも起こすし失敗もする。
しかし信者にとってその人は神だから、間違いや失敗もそのまま「真理」に
なってしまう。これが新興宗教が陥りやすい失敗の構造です。
全ての新興宗教がそうなるとは限りませんが、「絶対神を崇める一神教」には
その傾向が強い。キリスト教ですら一神教であるがゆえに過去にはそのような
傾向にあったわけですが、「聖書」は別にキリストが1人で書いたわけではない。
複数の弟子が様々な価値観でキリストの言葉を解釈し、その後も歴史を重ねて
時代ごとに様々な修正が加えられた。だから普遍的な価値を持ち、多くの人が
信仰しているのでしょう。神の言葉(真理)とは、様々な価値観が交じり合った
人間の思考の産物であると言えます。
>本来仏教は真理を追求する自己研賛が考えの始まりであり、
>人間あるいは何かを崇拝することが目的ではありませんでした。
そうですね、キリスト教のように一神教ではない仏教はもっと柔軟な構造を
持っていた。本来の仏教は「悟り」や「解脱」ですら最終目的ではなかったのです。
そもそも仏教には「目的」がなかった。悟るため、願いをかなえるために修行する
のではなく、「修行」そのものが悟りであり最終解脱だった。
修行と言っても滝に打たれたりすることではなく、炊事・洗濯・掃除…日々の行い
を真剣に行うこと、それがすなわち修行なのだそうです。
だから、オウムのように明らかに仏教の影響を受け、その権威を借りてるくせに
「解脱するために修行せよ」だとか「幸せになる為にお布施しろ」とか言ってる
自称宗教家は、悟っているどころか仏教について全く理解できていないことになります。(またはわかって嘘をついている)
また、オウムをはじめ多くのカルト集団の信者は、絶食したり長時間の瞑想などの
最中に「光」を見たり「神の言葉」を聞いたりして、それを「悟り」だと勘違い
しているようですが、それも大きな間違いです。人間、極限状態に置かれたら
光を見たり幻聴が聞こえたりするのは当たり前、単なる「生理現象」です。
仏教(禅宗)の書物にもそれは書かれていて、そのような状況で体験したことは
悟りではなく「魔界」である。そんなものは受け流せ、と諭しています。
昔の人はちゃんとわかっていたのです。
宗教をきちんと学べば我々にも理解できます。だからそんな偽りの修行で悟った
気になり偉そうにしている奴は、少なくとも宗教家ではない。
ところで、店長のおっしゃっている「西洋の合理主義(一括統治)と日本の裏表
の二重構造」これはそのまま、キリスト教と仏教の構造に重なりますね。
やはり、宗教の影響は大きいと言えるのでしょう。
(もしくはそのような構造だからこそ、それに適した宗教が定着したのだろうか…)
新しいスレッドは日曜日になったところで立てましょう。
それまでここで言い足りない方、引き続きどうぞ。
な〜 です
難しくてついていけない。
仏教でも苦行はあったと思いますがしらないので断言できません。
オウムで思うのは、全く関係のない人間を巻き込むのは「宗教行為」でなく「テロ」でしょう。
だからオウムは「宗教団体」でなく「テロ集団」だと思うのですよ。
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