デーブ川崎の居酒屋一覧に戻る
投稿番号:43627 投稿日:99年12月21日 18時14分19秒  パスワード
お名前:デーブ川崎
 

国語教育論

キーワード:国語 教育 詰め込み 詩

地域:その他


まずは事例から。

えー、フランスの国語教育は、一定年齢まで徹底的に「詩」を詰め込むのだそうで、
そうやって言葉の伝統を体に植え付けるとのこと。
だから、大人になっても有名な詩を暗唱できる人の多いこと多いこと。

詩の底流にながれるいろんなモノの考え方とか、愛とか情とか、ルールとか、
事件とかは「憶えてさえいれば後になって気づく事だから」との考え方のようで
(もちろん必要に応じて教えるのでしょうが)、なるほどと思います。

***

さて、わが国ですが、詩が教育の中であまり使われていないというか、
あまりにも「作る」側ばかり強調されて、暗唱する、記憶する、読み解くといった
詩の重要な特徴が活かされていないように思うのです。
ゆえにボキャブラリーは文脈と切り離して詰め込まなければばらず、
文法も切り離して詰め込まなければばらず、
どうも生きた言語教育ができていないように思うのです。

そういえば、日本には演説作法(パブリックスピーチの授業が全くない。
ただでさえパブリックスピーチの苦手な国民性に加えて、
そのノウハウや機会さえも与えられていない。
その癖、社会に出ると発言力とかを求められてしまう。どうなんででょう。

文法も語彙も身に付いていない、修辞法も弁論も平均的にだめ。
つまり国語力については絶望的な状況にあると思います.


実は、国語力の低下が数学や理科系科目の学力低下に拍車をかけているようで、
このまま国語教育が立ち直らなかった場合、技術立国がウリだった我が国は
いよいよ売るモノがなくなってしまうぜ、という危機の声を聞きました。

詰め込み教育が悪い、と一概に言いますが、本当は

  「詰め込んだほうがいいものを詰め込ませず、
      詰め込まなくてもいいようなものを、詰め込ませている」

というのが現状ではないでしょうか?

「詰め込み教育の是非」「国語教育の再建」「詩を使った教育」などの切り口から
日本の「OSなみに基礎的な教育である」国語教育の方法論について、
ちょっと語ってみませんか。


セロリーナさんからのコメント(99年12月22日 17時10分52秒)
           パスワード

日本の国語って何でしょうかね?
私は中国からの移入語を覚えるよりも前に、大和言葉の教育をしっかりすべきだ
と思い、うちの子供にも適当な教材はないかと探しましたが、わかりません。
大人の私でも、きれいな大和言葉の見本が思いあたりません。

子供に英語も覚えてもらいたいと思い、いろいろ探したらDr.Suseというのが
アメリカの幼児教育の定番なようで、ビデオを何本か買いましたが、音中心の
言葉遊びで、いい印象でした。だが、子供は喜びませんでした。

子供は休みの日には大きな公園へ連れていって、花鳥風月を五感で覚え
それにからめて言葉遊びをするような訓練をしています。

ちなみに子供の名前も、漢語的なものは使っていません。



くりがしらさんからのコメント(1999年12月23日 08時24分13秒)
           パスワード

国語科では、たしか詩についての指導が一番難しいということで指導の対象からはずそうという意見まで
あったような・・・(現場を離れて久しいので、最近の事はよくわかりませんが)

「だったら美術科に入れれば?」って意見を出したのを覚えています。(笑)

パソコンの普及で確実に「国語」が変わってくるのでしょうね。
これは個人的な意見ですが、国語科はもっともっと感性の部分を刺激し、磨いていく教育を
して良いと思います。
「ボキャブラリーを増やしなさい」ではなく、面白い作品を作ったり、多くの作品と出会い楽しむならボキャブラリーを増やしておかないと楽しめない・・・という環境作りを教育側がやっていけば、自然とそれを覚えたり、リズム・語呂合わせを工夫したりとなっていくのではないでしょうか。

文学作品なんて所詮作家のマスターベーションなんだから、授業で「それ」はなにをさしているか?とかを詰め込もうとしても誰も聞いてないっつーの・・・という感じかな。

「作品を楽しむ」から入り、その途中でそれぞれが出くわした「壁」・・・それが今まで授業でやってた「表現手法」だったりするわけだから、順序を入れ替えるだけのことなんだけどなぁー

「チ」さんからのコメント(1999年12月23日 10時47分12秒)
           パスワード

「チ」です、毎度!。

国語教育って根本に流れる、その国の歴史に培われた文化の伝承と切り離して考えてはいけないことだと思うんですがね。
フランスで詩による国文教育がなされていても、日本ではいかがでしょうかねぇ。
自国の言葉には異常なくらいにプライドを持つ国とそうでない国ではどうかなって思う部分がありますね。

日本だったらおそらく、誰かの詩文をテキストにして「この傍線の部分で作者が言いたかった・・・20字以内で書け」なんて、人の感性を一定の範疇に閉じこめる大馬鹿なとんちんかん教育をするんでしょうね。

およそありえないもの、ドイツ人のコメディアンとアメリカ人の哲学者って若い頃良く聞きました。
その国の国語教育環境で生まれる文化の差を揶揄した例ですけど、日本人はどこへ向かっているんでしょ。
韻を踏んで、音を聞き
微妙な言い回しを理解する本来の(そんなのあったかな?)日本の国語教育は、人との差を見つけるという、いびつな試験制度の前では時間の無駄になっていると思われているんですね。
国語教育は根本は、人に自分の意志を伝え、人の言っていることの意味をいかに理解するかだと思います。

言葉はワンとかニャンという合図ではなく、微妙な意志が疎通できる大切なモノ、おろそかにすればツケはもどってきますよね。最近やたらと「覇気のないくぐもった話し方」が耳障りですが、あのキレのない言葉が全てをあらわしはじめているんじゃないですか。「頭の回転が・・・」とした言い方が、「言葉の回転が・・・」って変わりますね。

くりがしらさんからのコメント(1999年12月23日 11時08分28秒)
           パスワード

>日本だったらおそらく、誰かの詩文をテキストにして「この傍線の部分で作者が言いたかった・・・20字以内で書け」なんて、人の感性を一定の範疇に閉じこめる大馬鹿なとんちんかん教育をするんでしょうね。

そうそう!(笑)

いっそ、「この詩を作った作者はどんな情景の中で何を想い、この詩を詠んだか絵で表現しなさい。」
のほうが面白いんだけどな・・・どうやって採点するんじゃ・・・(笑)

な〜さんからのコメント(1999年12月23日 11時18分58秒)
           パスワード

な〜 です

私はよくわかりませんが
日本に来るALT(学校で英語の授業のアシスタントにくる外国人)
は単に英語を話す人だけど
日本から外国に日本語を教えに行く人は厳しい文部省の試験を通った人です。

語学はしゃべられれば良いとか、話したい内容が伝わればいいとか
言う問題で無いと感じていますが。

この作者はなにを言いたかったのか、と言う設問はそんなに意味のない
問題とは思えませんが。

くりがしらさんからのコメント(1999年12月23日 13時34分24秒)
           パスワード

>この作者はなにを言いたかったのか、と言う設問はそんなに意味のない
問題とは思えませんが。

大切な事ですよね。それをどう指導するか・・・
左脳から詰め込むか、右脳で感じ取らせ、じっくり落としどころへ導くか・・・
現在のカリキュラムでは前者でやるしか方法はないのでしょうけど。

ただ、「作者はこういいたかったんだ」と授業で教えていて感じる事は
明らかに生徒は楽しんでいない。半分以上は
「よーわからんけど、先生がそういうからノートに書いておこう」
という感じがヒシヒシと伝わってきます。
教える側のテクニックにも問題があるとは思います。

毎回の授業で、楽しませて、盛り上げて、引き込んで・・・落とし込む・・・難しいだろうなぁ〜

あっ、あくまで詩歌についてですよ。論説文・随筆についてはこれまた少し違うのでしょうけど・・・

デーブ川崎さんからのコメント(1999年12月24日 05時25分20秒)
           パスワード

国語って、何せ唯一国際性のない教化なわけで、これをどう教育するかということは
何より重要であります。日本では理系教化も芸術教科もすべて日本語で教えている
わけで・・・ということは、日本語が正確に習得されていないと、他の教化を学ぶ
チャンスすら奪われてしまう可能性があるわけです。

さて、感性と論理性の問題ですが、論理性の教育は必ず必要です。これはプロトコルだから、
人によって言語情報の解釈が自由になってはいけないわけで(「止まれ!」って言われて
走り出す、とかね)、これは幼児段階から一貫して少しづつやるべきだと思います。

で、言語的感性の部分ですが、これは「暗唱」と「作文」と「話術」の3つが特に重要だと
思います。特に古い詩作などの暗唱は必要だと思います。これは意味解釈なんかつけなくて
もいいと思うのです。ひたすら九九のように憶えなければならない。そうしなければ入って
ゆかないものもありますね。
「作文」に関しては、できるだけ早くから「懸詞(かけことば)」などの
歴史的に培われてきた定型を学んでもらう必要があると思います。技術的習得無しに
本当の感性の解放はないと思うのです。楽器しかり、書道しかり。

そう、たとえば現在の言語教育で欠けているものに「慣習の伝承」があります。
たとえば「おめでたい言葉と忌み言葉」の使いわけなんてのは、日本語の
根っこに流れるものすごく柔らかい微妙な部分を勉強するのに必要だと思います。
このほかに「だじゃれ」なんてのも、もともとは「地口」と言って、
ひとつの教養のバロメターだったわけで、ちゃんと勉強すべき。
「ものはづけ」とか「山号寺号」なんていう遊びがどれだけ簡単でかつ
高度な言語的感覚を身につけることに役立つか!
こういう微妙なニュアンスが使いこなせるようになってこそ、はじめて感性の
ブラッシュは自由に、その人の心の中のものを描き出すと思うのです。

そう国語の中に「話術」ではなく「話芸」科目を加えて欲しいなぁ。

Keiさんからのコメント(1999年12月29日 11時09分57秒)
           パスワード

学校の授業で奥の深いものを教えようとしても限界があるのでは?
確かに、”それ”が何を指すのかとか、”作者の意図は?”とか
作品の本質を語るにはおよばないと思いますが、文の読解力という意味では
重要なことかと考えます。
そこからは、教えてもらうのではなく自ら学ぶことではないですか?
学校の授業は全てを教えるのではなく、学ぶための基礎力をつけるところだと
考えた方が良いと思います。
では、どうすれば生徒は学ぶ意欲をもてるのか?
それはカリキュラムがどうだこうだではなく、ひとえに先生の力によるところが
大きいと思います。
先生が国語を面白いと感じ、それを子供に伝えたいという熱意があるならば
”先生は授業がとっても楽しそうだけど何故かな?
こんなものの何処が面白いんだろう?”と子供が考えた時、くだらないや!
で済む子もいるかと思いますが中には”他の作品も読んでみよう”と思う子が
必ずや存在するはず。
そういった、学問への掛け橋を学校はになっているはずなんですが、、、、

問題なのはそういった力を発揮し先生が必ずしも評価されないという学校の体制の悲しさ。
成績が良くないと評価されない子供、成績を良くできないと親と学校から責められる担任。
先生達ががんじがらめで自由な発想での授業というのが非常にやりにくくなっているし、
また、そんな学校で育ってきた先生は自由な発想ができなくなっている。

いくらカリキュラムを工夫しても
管理された学校制度の中じゃ難しいかも???

そこで、進学塾ではなくもっと
おもしろい塾ってなりたたないのかな?
いわば社会人が通ってるカルチャークラブみたいなもの。
古文を教える塾。
古代の遊びを教える塾。
伝統工芸を教える塾。
歴史を教える塾。
などなど、、、、

何もみんなが良い成績とって良い大学行く必要無いじゃん。
もっと個々の才能がいかされる場をつくっていけないのかな?なんて
企業が個人でなく学歴で採用するなんていうてっとりばやいことやっちゃうから
学校教育もそれに対応してきたんだと思います。
企業の人事がかわれば教育にもバリエーションがでてくるんでは?

かなり話題がそれちゃった気もしますが、、、、学校関係の話題になるとつい。
とにかく、いまの学校の体制では限界があると思います。
大体、45人もの子供の足並みをそろえさせるなんて絶対無理。
先日5人の子供を北海道につれていきましたが、大人3人かかって
四苦八苦でした。
保母さん、学校の先生ってもっと大人数を
毎日相手してるんだと思うと脱帽もんですよ。それなのに何故
何かというと学校に責任おしつけるんでしょうね。(あら、また脱線しちゃいました。)

くりがしらさんからのコメント(1999年12月29日 11時29分15秒)
           パスワード

>そこで、進学塾ではなくもっと
>おもしろい塾ってなりたたないのかな?
>いわば社会人が通ってるカルチャークラブみたいなもの。
>古文を教える塾。
>古代の遊びを教える塾。
>伝統工芸を教える塾。
>歴史を教える塾。
>などなど、、、、

おもしろそうですなぁー(^^)

それから・・・全然関係ないけど
先生向けの風俗も用意しておいてあげないとね(わぁぁー・・・黒爆)



この投稿に対するコメント

コメント:HTMLタグは使えません。改行は反映されます。


お名前:(省略不可)

削除用パスワード:(省略不可8文字以内)

メールアドレス:(省略不可)

URLアドレス:
 ホームページをお持ちの方のみ、そのURLアドレスを記入してください。



Copyright(C) 2000 Tips. All Rights Reserved.◇  DB-BBS-system V1.10