[デーブ川崎の居酒屋一覧に戻る] お名前:デーブ川崎
地域:その他 春菜ちゃん事件のスレッドでまるちゃんがこんな書き込みをしてくれました。 以下引用。 *** まるちゃんさんからのコメント(99年12月21日 10時30分19秒) 「実像の自分」とは何かと問われると、少々答えに窮するのですが、メッチャ抽象的に 表現すると、「自分の中に自己否定が存在しない状態」とでも、いいましょうか? *** さて、そういうわけで、最近「自分らしく」とか「自分の実像」なんていう言葉が よく使われていますが、この場合の「自分らしさ」って、実は「こうありたい自分」 であって、その実像ではないぞ、という指摘があります。 「実は自分のことは他人のほうがよくわかってるのだ」という意見と、 「自分の事が他人にわかるわけない」という意見と、 「自分が望んでいる自分像に忠実なら現実なんていいんじゃない?」という意見が あります。果たして、昨今、人々が、まるですがりつくように使っている 「自分らしさ」という言葉、実際にはどんなものを指していると思いますか? 等身大の自分の姿なんて、見つけることができるのでしょうか。 |
な〜 です
自分は理想の現実の妥協点です
>自分は理想の現実の妥協点です
えー、それでは、話が拡がるように、何か具体的な例をひいてみてください。
な〜 です
もっと自分の気の向くままの人生を送りたいけど
周りの目をあるし。
いい人になろうとしているのでしょうね。
そもそも、自分などというものは存在していないのだと思います。
本当は、全てが混沌とした一つのものなのですが、少しその中の淀みや、
偏りが、生じているということなのではないでしょうか。
その証拠に、自分自身は自分自身が考えたとおりにどんなにでも変化させ
ることができますし、他人すら自分が考えたとおりに変えていくことは可
能です。
自分自身が勝手にできるできないとか、壁を作って物事を形にしておこう
とする意識そのものが、自分や他人を作っているという事なのではないで
しょうか。
自分自身の事、自分自身をよく知る方法、もの、いろいろと言われますが、
そう考えると全て一つに繋がると思います。
>そもそも、自分などというものは存在していないのだと思います。
>本当は、全てが混沌とした一つのものなのですが、少しその中の淀みや、
>偏りが、生じているということなのではないでしょうか。
おお、まさにこれは般若心経の世界ではないですか。同時にガイア的世界観。
僕もどちらかというとこの考えに近いのですが、どうもその「物質の偏り」の
上に乗っている(生物学的な遺伝子とは違う)「情報遺伝子」にメタ"わたし"的な
ものがのっかっているように思います。つまり「わたし」と感じさせているもの。
ただ、これも次から次へと鋳型と鋳物の関係で受け継がれてゆくものなので、
何が私らしくて何が私らしくないか、なんてこと、言えなくなるようなんですが、
ただ、この「情報遺伝子」は、その「偏り」に「わたし」を感じさせることによって
生き残ろうとする力を発揮するようなんであります、どうやら。
もうちょっといろいろ考えてみましょう。正論、反論、邪論、妄論、大歓迎。
自分とは「他人様を実存させるための礎」。
自分とは「他人様によってのみ実存する」。
他人は自分のフィルターを通してのみ自分の中にだけ存在する。
一方、自分はそのフィルターを通した複数の他人の中に存在する。
再帰的に相互に寄りかかって役を得ているにすぎない。
よってここからひかれる論は色々。
自分がダメダメなら、他人もダメダメ。世界もダメダメ。
より良く生きるなら「他人を良くし、自分を良くする」。
抑して生きるなら「他人を抑し、自分を抑する」。
良く判らんけど、カメラ片手に被写体探してる自分とか、いいモノに出会った時に
写し撮らねば!! とか思う自分(^^; が居るから、その自覚に必ずしも「他人」が必要
とは思わないんだけれど・・・
ただ対象物は必ず必要かも。自分の場合は「自分以外」が対象物ですが (^^;;
> 等身大の自分の姿なんて、見つけることができるのでしょうか。
我が意を押し通す、超ワガママ状態の自分を自覚した時... かな?
全然関係ないけど、下熱の方でおなじHNの方、発見!! (^-^;;;;;
私しゃあっちに書かないけど、紛らわしいので名前変えときます。
...て、大して変ってないけどぉ (^-^A
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